日中翻译——日本经济 日本经济发展史

日本経済は第二次世界大戦後、いくつかの段階を経て今日に至っている。まず戦前水準への回復期、次いで重化学工業を牽引力とした高度成長期、それから二度の石油危機を経た後の技術集約産業主導による安定成長期である。そして、1980年代後半からのバブルの成長と崩壊、景気はその後、90年代に入っても回復しないまま長期低迷状態にある。こうした事態を打開し、経済成長率の回復を図るための官民の広範かつ真剣な努力が展開されているところである。

译文→二战后,日本经济历经以下几个阶段,形成了现在的经济现状。首先是战前水平的恢复期,接着是以重工业和化学工业为首的高度增长期,然后是经过2此石油危机后的以技术集约产业为主导的稳定增长期。经过20世纪80年代后期开始的泡沫经济的形成和破裂后,日本经济在进入90年代后仍陷入无恢复的长期低迷状态。为了打开低迷的经济状态,谋求经济增长率的恢复,日本的官民展开了广泛而又认真的努力。

1戦後の復興期(戦敗~1950年前半)

戦敗直後の日本の鉱工業生産は戦争勃発当時(1941年)の水準の7分の1に減少し、国民は深刻な食糧危機とインフレーションに苦しめられている。

日本を占領した連合軍は日本経済の民主化のために、三つの基本政策を導入した。即ち、①財閥解体②農地制度の改革③労働権の確立である。

財閥解体は三井、三菱、住友、安田など戦前の大財閥の解散を言い、これにより財閥一族による人的?資本的支配が一掃され、財閥一族以外の少壮経営者が大いに企業者精神を発揮しうるようになり、また企業間の競争も活発化することになった。また、農地改革により、小作地の81%ガ自作地として開放され、地主制が解体した結果、新たに自作農となった人たちによる農業の近代化が進展した。さらに、労働者については動労三法(労働組合法、労働関係調整法、労働基準法)が制定され、労働運動の合法化をはじめ、労働者の地位が大幅に改善されて、労働意欲の向上や労使関係の安定化に寄与した。戦後の日本経済発展の大きな枠組となったのはまさにこれら3本の柱であった。

他方、作業面では1947年から石炭、鉄鋼へ資材、労働力、資金を集中に戸投与する「傾斜生産方式」が採用され、1948年から日本経済はインフレを伴いつつも、復興の軌道に乗った。しかし、1949年に米国の特命全権公使として来日したJ?ドッジは「日本経済は両足を地に着けずに竹馬に乗っているようなものだ。片足はアメリカの援助、他方は国内の補助金であり、竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある」と述べ、厳しい緊縮政策が実施された。このプログラム(ドッジ?ライン)によってインフレは一応収束したが、反面、経済は深刻な不振に落ち込んだ。そこから立ち直る契機となったのは50年に勃発した朝鮮戦争に伴う在日米軍向けの資材?サービスの供給(朝鮮特需)であった。こうして日本経済は復興の歩みを速め、50年代半ばまでにほぼすべての経済指標が戦前の水準にまで回復した。

译文→1 战后的复兴期(战败~1950年前期)

战后,日本的矿业工业生产减少到战争爆发时期(1941年)的1/7,国民也挣扎在粮食危机和通货膨胀的水深火热之中。

占领日本的联合军为了保证日本经济的民主化,导入了三大基本政策,即①财团解体②农地制度改革③确立劳动权。

财团解体指的是三井,三菱,住友,安田等战前的大财团的解散。由此,由各财团掌握的人力·资本支配被一扫而光,财团以外的少壮经营者也准备发挥企业者精神,蓄势待发,企业间的竞争也活跃起来。另外,通过农地改革,地主制解体,佃耕地的81%成为自耕地,原来的佃农成为自耕农,带来了农业近代化的发展。而关于劳动者的劳动三法(劳动组合法,劳动关系调整法,劳动基准法)的制定,不仅促进了劳工运动合法化,而且大大改善了劳动者的地位,提高了工作热情,使劳资关系稳定起来。而劳动三法也成为了战后日本经济发展大框架内的3根柱子。

另外,在产业方面,从1947年开始采用把资材·劳动力·资金集中投入煤炭·钢铁产业的“倾斜生产方式”。1948年,虽然仍伴随着通货膨胀,但日本经济走上了复兴的轨道。然而,1949年,作为美国特命全权公使热来到日本的J·道奇认为:“日本经济好比是两只脚离地踩高跷一样。一支高跷是美国的援助,另一支高跷是国内的补助金机构。如果高跷过高就会有摔跟斗的危险”,因此实施了严峻的财政紧缩政策。通过该政策(道奇路线),通货膨胀得到缓解,但另一方面却使日本陷入严重的经济不振中。而走出经济不振的契机则是1950年爆发的朝鲜战争。战争中,面向在日美军的资材·服务的供给(朝鲜特需)等相关行业得到发展。这样,日本经济加快了复兴的脚步。在50年代中期之前,几乎所有的经济指标都恢复到了战前的水平。

2 高度成長期(1950年代後半~60年代)

この移行期の状況を1956年度の「経済白書」は「もはや戦後ではない」という言葉で表現している。この年以後60年代末まで日本経済は何度か短い景気後退期に見舞われながらも、国民総生産(GNP)は年平均10%の高い成長率で伸びていった。この間、日本の産業は重化学工業の飛躍的な発展によって生産規模?生産性などを大幅に向上させる基盤を固めた。さらにこの時期には国際競争力の強化を図るための大型合併が目立った。

日本はまた輸入?為替の自由化を進め、国際経済への一層の適応を図った。62年には輸入自由化率が88%に達し、64年にはIMF8条国に移行(為替制限の原則撤廃)した。

また資本の自由化も進んだ。60年代後半にには輸出が拡大し、国際収支も黒字基調に転じた。

一方、高度成長の陰の部分としてインフレ問題と60年代後半には公害問題が発生した。

译文→2 高度增长期(20世纪50年代后期~60年代)

在这一时期的经济发展状况,1957年度的《经济白皮书》用“已经不是战后状态”来表述。

1956年到60年代末,日本虽然也遭到了短期的景气后退期,但国民生产总值(GNP)以年10%的增长率持续增长。这期间,伴随着重工业和化学工业的飞跃性发展,日本产业的生产规模·生产性大幅提高的基磐也稳固下来。更引人注目的是为了谋求国际竞争力强化而进行的的大规模合并项目。

日本推进进口·汇率的自由化,谋求进一步适应国际经济。1962年进口自由化率达到88%,

1964年成为IMF8条国(废除汇率限制原则)。另外,资本自由化也在不断推进中。60年代后期,出口扩大,国际收支也转为黑字。

另一方面,在高度增长的阴影下,通货膨胀问题和60年代后期出现的公害问题仍不可忽视。

译注(1)IMF8条国——是指接受国际货币基金组织(IMF)协定的地8条规定的义务的国家。IMF中第8条的要旨是(1)废止通常贸易中的汇率限制(2)自由交换性的恢复。

3 安定成長期(1970年代~80年代前半)

インフレ問題と公害問題のため、1070年代に入ると、経済成長にも陰りが見え始めた。さらに、国外からも重大の攪乱要素が相次いで生じてきた。その一つは71年のニクソン米国大統領によるドルの金兌換停止であった。このようなドル不安の中での為替調整によって23年間続いた1ドル360円時代が終わった。1ドル308円の一時期を経て、円は変動相場制に移行し、73年には1ドル260円台に達した。

73年の第一次石油危機は世界同時不況をもたらしたが、その衝撃は日本のような資源輸入国には特に痛烈であった。当時日本政府は列島改造計画を推進し、また成長鈍化や円高に対処するための積極的財政?金融政策を導入しようとしていた。従って、経済はインフレ基調にあった。そこに石油危機が加わったため、「狂乱物価」と呼ばれる激しいインフレが発生した。

物価急騰は政府の総需要抑制によって76年には沈静した。しかし、石油危機後の世界的な景気後退もあって、日本経済は5年余りにわたって低迷を続けた。79年には第二次石油危機によって世界経済は再び大きな混乱に陥った。

こうした危機を切り抜けるために、日本の各産業は省エネルギー技術や自動化技術の開発?導入を推進した。また日本経済全体として産業構造の「重厚長大型」から「軽薄短小型」への転換が進んだ。米国の高金利によるドル高?円安を背景に輸出も日本経済の牽引力の役割を果たした。こうして、80年代前半、日本経済は4~5%の安定成長軌道に乗った。

译文→3稳定增长期(20世纪70年代~80年代前期)

进入20世纪70年代,因通货膨胀和公害问题,经济增长中开始出现暗流。来自国外的重大干扰因素也接连不断地出现。1971年美国总统尼克松宣布停止美元兑换黄金就是其中之一。

在美元不稳的情况下进行的汇率调整,导致持续23年的1美元兑换360日元的时代结束。日元汇率转变为浮动行情制,1973年达到1美元兑换260日元左右。

1973年的第一次石油危机,导致世界各国经济萧条,而像日本这样的资源进口国,遭受的冲击尤其惨痛。当时的日本政府,推进列岛改进计划,为了应对增长钝化,日元升值等问题,正要导入积极的财政金融政策。当时的经济的基调是通货膨胀,再加上石油危机的影响,发生了被称为“狂乱物价”的激烈的通货膨胀。

通过政府的抑制总需,暴涨的物价在1976年平静下来。但由于石油危机后的世界景气后退等影响,在之后的5年终,日本经济都持续着低迷状态。1979年,第二次石油危机,使世界经济再次陷入大混乱中。

为了度过危机,日本各产不断推进节能技术及自动化技术的开发和导入。日本经济整体的产业构造,则从“厚重长大型”转变为“轻薄短小型”。在美国的高利率引起的美元升值·日元贬值的背景下,出口也发挥了日本经济牵引力的作用。这样,在80年代前期,日本经济乘上了年增长4~5%的稳定增长轨道。

4 バブルの生成と崩壊(1980年代後半~90年代初め)

この間、貿易黒字は増えつづけ、対日批判は強まった。これを解消するため、88年から公定歩合を引き下げ、各種規制を撤廃するなど、民間活力による内需拡大路線が推進された。この政策は企業の要請にマッチし、経済は非常に活性化した。たとえば、民間設備投資が3年連続(88~90年度)2桁の伸び率を示した。株価と地価はとどまるところを知らずに上昇を続けた。このバブル景気に対処するため89年半ばから日本銀行は金融引き締めに転換した。このため一緒に90年初頭から株価の暴落が始まった。91年4月をピークとしてこの景気は下降に向かい、やがて株価は最高値(89年12月38915円)の半分以下に急落し、土地の取引も急速に縮小し、地価も下洛してきた。まさに、バブルがはじけたのであった。

译文→4泡沫经济的形成和破灭(20世纪80年代后期~90年代初)

在此期间,日本持续贸易黑字,对日批判日益强烈。为了解除批判,日本从1988年开始,采取降低基准利率,废除各项限制等,推进由民间活力形成扩大内需路线。这些政策符合企业的需要,使经济更加活跃。例如,民间设备投资连续3年(88~90年度)出现了2位数的增长率。股价和地价无限持续上涨。为了应对泡沫经济,日本银行从1989年中开始收紧金融。受此影响,股价在1990年初开始暴跌。在1991年4月,股价暴跌迎来顶点,景气衰退,不久股价暴跌到最高价(1989年12月38915日元)的一半以下。土地交易急剧缩小,地价暴跌。这正是泡沫经济的破灭。

5 90年代の長期景気低迷(90年代初め~98年)

バブル崩壊後の90年代の経済は全般的には低成長を余儀なくされているが、内容は一様ではない。

この時期は3区分される。まず、第一期は94年度までの3年連続国内総生産(GDP)の成長率が年平均0.5%の不況期である。92~94年度の3年間にバブル期の設備能力の過剰を解消するため、設備投資は19%減少した。また、地価、株価も暴落した。第二期は平均3%の経済成長率を達成した95と96年度である。設備能力の調整を終えたことを背景に民間設備投資が年率8%の伸びに回復した。また公共投資追加、円高対応への公定歩合引き下げ(95年9月、史上最低の0.5%へ)消費税率引き上げ(97年4月、5%へ)を目前にした駆け込み需要などが成長要因として挙げられる。この期は95年の異常な円高(「第二次円高」期でピークは95年4月:79円/ドル)にも見舞われたが、公定歩合の引き下げ、新たなる製造業の海外立地?生産、安い輸入品活用などの対応により、景気への悪影響を極力小さくした。

97年以降もこの成長は持続されると考えられたが、この後はマイナス成長が続いている。これは金融の信用収縮、資産価格の低下、設備投資の減少、輸出の減少、雇用や所得の減少、過剰債務の未処理などの複合要因であると考えられている。この第三期には従来見られなかった次のような深刻な事態が生じている。第一は97年11月、大手金融機関の証券会社及び銀行が破綻した。これは金融システム全般への動揺、信頼性低下を招いた。民間?政府系共に金融機関の不良債権増加とその処理もいわゆる金融ビッグバンを迎え、大問題になっている。これに伴い貸し渋りも生じ、設備や新規事業への投資を阻害している。第二は企業は長引く不況からの脱出のためいわゆるリストラ、競争力強化を推進しているが、その結果97年7月から連続1年以上も雇用?所得が減少している。特に失業率が急増し、98年11月には4.4%にまで達成し、失業者は300万人近くになり、戦後最悪を記録した(失業者はその後も増え続け300万人を超え、99年3月には4.8%を記録した)。こうした事態に対処するため政府は過去に例のない60兆円の公的資金を投与し、金融秩序の安定、回復を図るとともに税収不足をカバーするため多額の国債を発行し、財政面からの景気刺激策を打ち出した。

译文→590年代的长期经济低迷(90年代初~98年)

泡沫经济破灭后的90年代,经济不得不面临低增长,但各个时期却各有不同。

这个时期区分为3个不同阶段。第一个阶段是到1994年度的萧条期,连续三年的国内生产总值(GDP)增长率为年均0.5%为了消除泡沫经济期间的设备能力过剩,1992~1994年,设备投资减少了19%另外,地价、股价暴跌。第二个阶段是1995和1996年。在这一阶段,达成了年3%的经济增长率。在完成了设备能力调整的背景下,民间设备投资恢复到了年8%的增长率。追加公共投资、对应日元升值而降低基准利率(1995年9月,降为史上最低的0.5%)、提高消费税率(1997年4月,提升为5%)等当下的紧迫需求成为增长要因。1995年,日本遭受了异常的日元升值期(第二次日元升值,最高是95年4月的79日元/美元),但通过降低基准利率、新的制造业的海外布局·生产,廉价进口品的活用等措施来对应,把对景气造成的坏影响降到最小。

当时认为在1997年后经济增长仍会持续下去,但之后却持续是负增长。可以认为造成负增长的是以下多个原因:金融信用收缩、资产价格低下、设备投资减少、出口减少、雇佣和所得减少、过剩债务未处理等。第三个阶段中产生了前所未有的如下的严重事态。第一是大型金融机关的证券公司及银行破产,导致了整个金融体系的动摇,可信性低下。最终迎来了民间·政府的金融机关不良债权增加,以及其处理即所谓的金融大爆炸,成为一大问题,并由此产生了惜贷问题,阻碍设备及新规事业的投资。第二是企业为了从长期的萧条中脱离出来,推进了所谓的裁员,强化竞争力等措施,但结果则是从1997年7月开始的1年以上企业减少了雇佣,但企业所得也减少。尤其是失业率激增,1998年11月甚至达到4.4%,失业人数接近300万,创下了战后的最高纪录(之后,失业者持续增加,并超过300万人,1999年3月创下了失业率4.8%的记录)。政府为了对应严峻的事态,投入了史无前例的60兆日元的公共资金,在谋求金融秩序稳定和恢复的同时,政府也发行巨额国债弥补税收不足,从财政方面采取刺激经济的政策。

6 日本経済成長の要因

  日本は第二次世界大戦後、奇跡ともいわれる高度成長を実現した。また、2度の石油危機や急激な円高の影響を迅速に克服して、世界の人々の注目を集めた。その要因については多くの議論があるが、大約、次のような要因が挙げられている。

●高度成長

第一.教育水準が高く、勤勉な人的資源があった(その背景に儒教の影響を認める論者もいる)

第二、古い設備が戦争で破壊されたため、世界最新の設備?技術で装備できた。

第三、自由貿易体制の下で、原燃料を世界から自由に輸入でき、また、各国、特に、米国が日本の商品をかなり自由に受け入れてくれるなど、輸出市場にも恵まれた。

第四、企業と労働組合がヨーロッパや米国に追いつくという共通の目的を持ち、まず経済的なパイを大きくするために協力した。

第五、国民の貯蓄性向が高く、また銀行が積極的な融資を行ったため、投資のための資金が十分供給された。

第六、平和国家の道を選んだため、資金や人材を経済活動に集中できた。

●石油危機(1970年代)と円高克服

第一、新技術の開発と、その実用化へ向けての果敢な投資によって、エネルギー消費を大幅に減少した(たとえば、鉄鋼業や化学工業のオートメーション化が一層徹底され、コストが削減され効率が向上した(94年時点、世界の産業用ロボットの62%が日本で稼働していた)

第二、コンピュータを活用した多品種少量生産システムの開発で、多様化する市場の要請に対応するなど、製品の高級化?高付加価値化をすすめた。

第三、円高は日本が大量に輸入する原燃料のコストを引き下げ、輸出への抑制効果を相殺した。

第四、エレクトロニクスの応用による情報?通信システムを広範囲に採用し、管理業務?輸送?在庫管理など種々の分野でコスト削減とサービスの質的改善を実現した。

第五、米国?欧州などの需要地への工場進出によって、円高の影響を軽減した。

 

日中翻译——日本经济 日本经济发展史

以上のように、日本経済成長には国民各層の一致した努力によって成功した。なお、これらに加えて、国際貿易体制の存在や国際化の進展など、外的条件が大きく寄与したことも無視できない。

しかし、急激な経済成長は様々なゆがみをもたらした。例えば重化学工業の発展による公害の発生、国民生活に必要な資本整備の遅れ、工業発達のため、都市の過密や農山村の過疎問題などが深刻化となった。

译文→6 日本经济增长的要因

二战后,日本实现了奇迹般的经济高度增长。另外,日本迅速克服了两次石油危机和急剧日元升值的影响,吸引了世人的瞩目。得到这些结果的要因众说纷纭,但大致可以举出以下几个。

●高度增长

第一、教育水平高,多勤勉的人力资源(也有论者认为其背景是收到儒教的影响)。

第二、旧设备毁于战争,所以日本装备了最新的技术设备。

第三、在自由贸易体制下,能够自由的从世界各地进口原料燃料,另外,也受惠于世界各国的出口市场,尤其是美国能相当自由的接受日本的商品

第四、企业和劳动组合抱有达到欧洲和美国水平的共通目标,所以首先合力把经济蛋糕做大。

第五、国民的储蓄比例增高,银行积极融资,充分提供了投资用的资金。

第六、选择了和平国家的道路,所以能够把资金和人才集中到经济活动上。

●石油危机(20世纪70年代)和日元升值的克服

第一、通过新技术的开发、以及技术实用化的果断投资,大幅削减了能源消费(例如更加彻底的实施了钢铁工业和化学工业的自动化,削减了成本,提高了工作效率(1994年,世界上的产业用机器人,其中的62%在日本嫁动。)

第二、推进了产品的高级化,高附加值化。如利用电脑进行的多品种少量生产系统的开发,对应多样化的市场需求等。

第三、日本通过大量降低进口原料和燃料的成本,抵消了日元升值对出口的抑制。

第四、广泛采用应用电子工学的信息通信系统,在管理业务、运输、库存管理等各个领域,实现了成本的削减和服务的质的改善。

第五、通过在美国·欧洲等需求国设置工厂,减轻了日元升值的影响。

如上所示,日本经济增长是靠全国各阶层的一致努力才取得了成功。另外,也不能无视国际贸易体制的存在和发展等外在条件的作用。

但是,急剧的经济增长也带来了各种不好的影响。如因重工业和化学工业发展而产生的公害、国民生活必须资本整备的延迟、因工业发达而导致的都市人口过密,农村山村人口过少等问题也严重起来。

  

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